南島原手延そうめん

島原手延そうめんの歴史

寛永に建てられた中国の唐寺、興福寺・福済寺・崇福寺。
その食文化に秘められた島原手延そうめんのルーツ。

島原そうめんのルーツについては諸説あり、そのひとつが小豆島伝来説です。1637年の島原・天草一揆(島原の乱)による荒廃後に、小豆島から移り住んだ人たちによりそうめんづくりが伝えられたという説です。

もう一つ考えられるのは、中国伝来説です。1613年に江戸幕府によってキリシタン禁教令が発布されるとキリシタンではないことを証明するために唐人(浙江省・江蘇省・福建省出身者)たちは、興福寺・福済寺・崇福寺の3寺院を建立しました。これらの唐寺における仏事や一般の食生活として「索面(さくめん)」が積極的に生産され、約400年前、島原半島にこれらの僧によってその製法が伝えられたのが、島原手延そうめんの発祥ではないかという説です。今でも福建省福州市では、南島原市で昔使用されていたこね鉢、巻き鉢、室、牛頭、バラ(竹で編んだ入れもの)などと同じような道具が使用されています。

長崎の唐寺で見られる「福」。
長寿麺とも言われる索面は、
唐寺と唐人たちにとって
欠かせない食べ物だった。
長崎では、そうめんは
常に幸福とともにある。

中国より伝わる小麦と麺

中東発祥の小麦がシルクロードを経由して中国へ。
長崎を経由して麺文化が日本へ広がる。

江戸時代以前から、中国唐船や南蛮船による海外交流が盛んな長崎。平安時代延暦23年(804年)には、天台宗開祖の最澄も、真言宗開祖の弘法大師空海も遣唐使として長崎の平戸田浦や五島三井楽を経由して中国へ渡航しています。また、鎌倉時代にはすでに饅頭が作られていたことから、中東からシルクロードを経由して中国へ伝わった小麦は、遣唐使の航路を主とし、長崎を含む西九州を経由して日本に入ってきていたと考えられます。古くから手延製法で作られる五島手延うどんの存在は、長崎が中国と日本との交流接点だったこと、日本における小麦栽培、そして麺文化伝来の地であった可能性を感じさせます。

その後も、地理的に中国へ近い長崎は、鎖国政策の中唯一の海外貿易拠点として中国やオランダ、ポルトガルなどの文化を積極的に受け入れ、新たな卓袱料理や精進料理(普茶料理)を生み出し、食文化を独特なものに変えていきました。ちゃんぽん、皿うどんなどユニークな麺料理も誕生することになります。

中国より伝わる小麦と麺

今日も変わらず、
そうめんづくりに情熱を傾ける
南島原のそうめん職人たち。

数字で見る島原手延そうめん

今、この瞬間も、南島原では多くのそうめん職人がみなさまにお届けするそうめんに情熱を傾けています。

手延そうめん生産量

小麦粉使用13,566トン 
 全国シェア率29%

平成21年米麦加工食品生産動態等統計調査年報より

手延そうめん生産者数

311

平成25年(南島原市役所調べ)

手延そうめん生産数量

700,000
(1箱は18kg)

平成27年度手延そうめん生産量(南島原市役所調べ)

島原手延そうめんの2大ブランド

高品質を保証する島原手延そうめん、2つのブランド。

長崎県島原手延そうめん振興会

長崎県島原手延そうめん振興会

島原手延素麺組合連絡協議会

島原手延素麺組合連絡協議会